瞑想をする日もしない日もあるいい加減な私が言うのもなんですが、
ヴィパッサナー瞑想を続けてきて、最近、自分は明らかに変わったなと思います。

ヴィパッサナーとは「よく観る」という意味です。
私がゴエンカ師のヴィパッサナー瞑想に行って習ったことは、身体の表面の感覚をよく観ることです。

座ってただそれをやるだけなんですけれど、まず座り続けていたら、足がすごく痛くなって嫌になってきます。
そして、身体の感覚を感じ取ることがなかなか難しい。難しいからなのか、身体の感覚に集中しようとしても、頭はほかのことを考えてしまいます。

でも、とにかく瞑想を続けているうちにいろいろなことに気づくようになりました。

やることは身体の感覚をよく観ることなんですけれど、自分は「やりたくない」のです。つまらない!!
それより頭の中でいろいろ考える方が楽しいのでしょうね。何か考えごとに意識が行ってしまいます。

つまり、瞑想中に現実逃避が起きているのです。やるべきことは決まっている。でも、それができない。
ついつい考えごと=妄想が始まる。
やるべきことをやらないで、他のことに逃げている。

考えてみたら、私の人生も全てこれだったなと思ったのです。
瞑想中にやっている現実逃避を、実際の生活でもやっていることに気づきました。

それに気づいたら、日常生活が変わってきました。やるべきことをやらないでいると、

あ、また、瞑想中と同じことをやっている!
「今」に集中しないで、どこか他のところに意識が行ってしまっていると気づけるので、
「今」は目の前のやらなきゃいけないこれをやろうと
行動に移せるようになってきました。

瞑想中、「今この時、やることは身体の感覚を観察すること」

でも、実際には音が気になったり、考えが浮かんできたり、身体のどこかが痛いのが気になったり、昔のことが思い出されてきたり、様々な感情に翻弄されたり…

それもまた観察していく。

「今」起きていることを観察していくわけですが、心は観察するだけでは飽き足らないのです。つまらないのです。飽きてしまうのです。
もっと劇的な面白いことがないかなと心はさまよい出します。

私の現実生活もいつももっと劇的なことを探してさまよっていたように思います。だから、いつも満ち足りることがない。いつも何か足りない、何かつまらないと思ってしまっていたように思います。

本当はただ観察できるようになったら、心はとても落ち着くのです。

それと同じように実際の生活でも、ただありのままに判断を入れずにながめられるようになれば、心は落ち着くのです。満ち足りるのです。

そして、これが一番手強かったのですが、ネガティブな考え、感情の扱い方も上手になってきました。

本当にこれは手強くて、どうしてもネガティブな考え、感情が出てくると、それじゃダメだと戦ってしまうのです。

瞑想中、心の中に葛藤が起きる。

例えば、足が痛い時に、痛みを観察せよと言われます。
観察しているけれども、どこかで「この痛み、消えてくれないかな」とか「観察すれば痛みは消えていくはずなのに消えないじゃないか」とか考えてしまうんですね。
で、足を崩してしまおうか、
いやいや、ここは乗り越えないと。頑張って痛みを観察するんだ!
と自分の中に葛藤が起きる。

でも、痛みは無くならなくてもいいのです。
同じようにネガティブな考えや感情も無くならなくてもいいのです。

あっても、「あ、あるね」って気づいて、それで終わりにする。
「あってはいけない!」と価値判断を持ち込まない。

そうやってやり過ごしていくうちにだんだん薄れていくというか…

瞑想を続けてきて、瞑想中に起こっていること(自分がやっていること)が現実世界で私が用いている生き方そのものだったことに気づいたのです。

そして、瞑想中に、何であれ起こっていることをよく観られるようになるにしたがって、
現実生活での暮らし方も変わっていくことがわかりました。

だから、座ることは人を変えるのです。